前九年の役
平安時代中期、東北地方は蝦夷(えみし)と呼ばれていた。野蛮人が住む所らしい。中央政府は、戦で降参した俘囚を雇い入れ律令体制の国つくりに取り組んだ。
俘囚の族長、安倍頼時は奧六郡の押領使である。奧六郡とは、胆沢、江刺、和賀、稗貫、紫波、岩手の六郡をいう。蝦夷の中央部にあたるため、この地を制す者は蝦夷の王である。頼時は中央政府に送る年貢をやめて、独自の国作りを始めた。
陸奥守の藤原登任は、何度も年貢を催促したが聞き入れないので、出羽の秋田城介重成を呼び戦をしかけた。しかし、安倍軍に全滅させられた。この戦が前九年の役の始まりである。
政府は、反乱を鎮圧するために、源氏の棟梁、源頼義を蝦夷に送り込んだ。頼義は、関東で家臣団を連れて向かった。その中に、藤原経清もお供していた。
多賀城で戦略を練っている頼義のところへ政府から大赦が発令された。天皇の生母の病気平癒の祈願のために、停戦することになった。それを喜んだ安倍義時は頼義をもてなし、平和が訪れた。それを象徴するように藤原経清と安倍頼時の娘が結婚した。
五年後、頼義は任期を終え、胆沢城から多賀城へ帰ろうとする途中の野営で夜襲を受けた。犯人は、安倍義時の長男の貞任であるらしい。頼義は頼時に貞任を差し出すように命じたが応じなかった。これが前九年の役の再開となった。
源軍と安倍軍の戦が始まった。頼義は簡単に勝てると思っていたが苦戦が続いた。軍の中に間者がいるという噂が広がった。安倍氏の女婿である平永衡が捕まえられ打ち首にされた。藤原経清は次は自分だと思い、戦中の一瞬のすきをついて、安倍軍に駆け込んだ。
激しい戦が続き、安倍頼時が死んだ。復讐を誓った長男の貞任は、大軍を率いて源軍を撃破した。頼義と嫡男の頼家は、恐れをなして多賀城へ逃げ帰った。頼義は兵士不足のため出羽の清原武則に助けを求めたが、応じてもらえなかった。諦めずに何度も懇願してやっと五年目にして応じてくれた。
清原軍1万騎と源軍三千騎は、反撃を開始した。安倍軍は敗戦が続き、最後の砦の厨川柵でとうとう敗北が決まった。ここで、貞任は討ち死にし、経清は捕まり首を鈍刀で鋸挽きに斬られて苦しみながら死に前九年の役(1051~1062年)が終わった。
後三年の役
清原武則は、前九年の役の武功により、仙北三郡、奧六郡の鎮守府将軍の地位を与えられた。
また、戦利品として藤原経清の妻をもらい受け、長男の武貞の妻とした。このとき、連れ子の藤原清衡は七歳だった。このことが、後三年の役の要因になるとは思いもしなかっただろう。
武貞の子は嫡男の真衡(先妻の子)、次男の清衡(経清の妻の連れ子),三男の家衡(武貞と清衡の母の子)となる。
嫡男の真衡の代になると、独裁支配に不満を持つ叔父の吉彦秀武は、清衡と家衡を引き入れ真衡を亡き者にした。これが、後三年の役の始まりである。
清原氏の族長をめぐって、兄の清衡と弟の家衡の争いが始まった。清原の血を引く家衡は、当然自分が族長になって全領土を継ぐ者と思っていたら、陸奥守の源義家の介入で奧六郡の北方の半分しか与えられなかった。それに不満の家衡は清衡の館を襲い家族を皆殺しにした。清衡は間一髪のところで逃げだし、義家に助けを求めた。
義家、清衡軍は、金沢柵に立て籠もる家衡、武衡軍の討伐に向かった。激しい戦いと兵糧攻めで柵が堕ち、家衡と武衡が討ち死にした。これが後三年の役(1083~1087年)の終わりである。
初代藤原清衡
源義家は清原氏の領土を獲得したと思っていたが、中央政府は清原氏の家督争いにすぎないということで清衡に与えた。義家は私闘とみなされ、陸奥守を解任された。
清原氏の族長となった清衡は、実父の藤原氏の姓である藤原に改正し、藤原清衡となる。奥州全土を掌握すると、江差から平泉に移り都を築いた。前九年の役、後三年の役で死んでいった者たちを弔うために、東北地方各地に寺院を建立した。その総本山が平泉中尊寺である。
来世は平和な時代に生まれたい願いから、お堂、仏像全てが金色の金色堂(1124年)を建立した。これが黄金文化と呼ばれる所以である。
二代目藤原基衡
基衡は弟の惟常と家督争いで戦をして二代目を勝ち取った。気力体力とも優れ、相手が国守、摂関家であろうと智略で対抗し自分の思い通りにする人物であった。
中尊寺の南方に毛越寺を建立する。
三代目藤原秀衡
秀衡は陸奥守藤原基成の娘と結婚し、中央と太い関係を持っていた。そのため、鎮守府将軍に任じられる。前九年の役後の清原武則以来二人目の快挙である。
宇治の平等院を模した無量光院を建立した。
四代目藤原泰衡
泰衡は次男として生まれながら、四代目の家督を受け継いだ。長男の国衡は、蝦夷出身の母を持ち、泰衡の母は前陸奥守藤原基成の娘のため、四代目の座を奪われた。
泰衡のもとに源頼朝に追われてきた義経が助けを求めた。父秀衡に義経の指示に従って戦をしろという遺言を守っていたが、頼朝の弾圧に屈して義経を自害に追い込んだ。義経の首を鎌倉に送って、奥州は安泰と思っていたら、頼朝が攻めてきた。
泰衡は平泉の都を焼き払いひたすら逃げ、肥内郡贄柵(秋田県大館市)で家臣の河田次郎の裏切りで殺害された。享年35歳だった。初代清衡が奥州を制して100年で、奥州藤原氏は滅んだ。
参考資料:学研の藤原四代